岩手県花巻市(現)出身の思想家であり、その思想を詩や小説に著して戦後になって高い評価を受けている宮沢賢治(1896〜1933)。
その宮沢賢治の著作の中に、座敷わらしが出てくる童話がありますので紹介します。
この童話の題名は「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記(著作年不詳)」です。
賢治は37歳で亡くなる時まで、病床でも以前の作品に手を入れることを続けたそうです。以前に書き終えた著作を、数年、あるいは10年も経ってから、全く別の作品と言った方がいいほどに書き改めてしまうそうです。
これは賢治独特のやり方で、その時期の自分として最大限の努力の結果を作品に表現する、という思想の反映と言えます。
この「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」も、その後「グスコンブドリの伝記」、更に後に「グスコーブドリの伝記」と書きかえられています。「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」のあらすじは、以下のとおりです。
おばけの世界の貧しい家庭に生まれたペンネンネンネンネン・ネネム(以下ネネム)は、両親と妹との4人家族。
おばけの世界に飢饉が続き、口減らしのために両親は相次いで自殺(と理解しました)、妹はおばけの世界の人買いに連れて行かれてしまいます。
ネネム自身も資本化に搾取(と理解しました)されながらも働いて資金を貯め、おばけの国の首都へ行き学校に入学します。
成績優秀なネネムは世界裁判長に抜擢され、次々に名判決を出して高く評価され絶頂期を迎えます。
裁判の方針は、「こちら(おばけ)の世界の人民が、あちら(人間)の世界になるべく顔を出さないようにする」というもので、顔を出したおばけは「出現罪」に問われます。
ネネムの前に、犯罪を犯したおばけの一人として、座敷わらしが登場するわけです。その部分は次のように書かれています。
検事:「ザシキワラシ22歳。アツレキ(おばけの世界の年号?)31年2月7日、表、日本岩手県上閉伊郡青笹村瀬戸21番戸伊藤万太の宅、八畳座敷中にゆえなくして、ほしいままに出現して万太の長男千太、八歳を気絶せしめたる件。」
ネネム:「出現後は何をいたした。」
座敷わらし:「ザシキをザワッザワッとはいておりました。」
ネネム:「何のためにはいたのだ。」
座敷わらし:「風をいれるためです。」
このようなやり取りの後、座敷わらしは明らかな出現罪として有罪になり、首都の街路の掃除を7日間命ぜられます。
このほか裁判長ネネムの前には、高利貸しや人買いなどが現れます。
ネネムの少年時代を合わせると、登場人物の中に、当時の日本と貧しかった東北地方との関係が投影されています。
この中におばけの一人として座敷わらしが出てくるのは、岩手県出身の賢治の童話ならではでしょう。
ただ「わらし=子供」ということは賢治は当然知っていたと思われますが、なぜ22歳の青年として登場させたのかはよく分かりません。
22歳の座敷わらしが突然出てきたら、これはファンタジーではなく、本当にお化けの世界になってしまうと思います。
なお、ネネムは絶頂期に足を滑らせて人間の世界(ネパールとチベットの国境付近)に転げ落ちてしまいます。何とかおばけの世界に戻れたネネムでしたが、出現罪で自分自身を裁き、裁判長を辞職することになりました。
2008年06月09日
2008年03月27日
柳田國男と遠野物語A
遠野物語をはじめとする民間伝承を柳田民俗学の基としたことについて、同じくウィキペディアに柳田の言葉が紹介されていますが、その中で私が「へ〜、そうなんだ」と改めて感じた部分を紹介します。
それは、「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」と述べている部分です。
「たとえば、ヨーロッパでは千年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の機械文明の進展のため、フォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく、現実のいたるところに往古の痕跡が残っている」そうなのです。
柳田は、日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということを発見し、民間伝承の歴史研究上の有効性を認めたことで、柳田民俗学は形成されていったということのようです。
次に、日本の民俗学の発展に大きく貢献した「遠野物語」について調べてみました。
実は、遠野物語の中で座敷わらしがどのように紹介(17話と18話)されているのかを記したかったのですが、どう要約しても柳田氏の著作権を侵害(まだ氏の死後50年たっていない)しそうなので、ウィキペディアを参考にして遠野物語を紹介するに止めます。
遠野物語は、岩手県遠野町(現、遠野市)出身の佐々木喜善によって語られた地元の民話を、柳田が編纂して1912年に発表した説話集で、柳田民俗学の出発点と言われています。「遠野物語」は本編が119話、続いて発表された「遠野物語拾遺」には299話が収録されています。
私も昨夏遠野に行ってきましたが、あの小さな町にこれだけの数の説話が伝わっていたなんで今更ながらびっくりです。なるほど柳田が語っていたように「日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌がある」のですね。
TVで放映されていた「鹿男 あおによし」のイントロで、「むかし倭と呼ばれたこの地には八百万の神々が住んでいた…」と語られているのも納得です。
遠野物語には、天狗、河童、座敷童子などの妖怪をはじめ、山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらに祀られる神様そして行事など登場人物(?)は多岐に渡ります。
民間伝承に焦点を当て、奇を衒ったような改変をせず、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることは、遠野物語編纂後100年近く経った今でも高く評されています。
それは、「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」と述べている部分です。
「たとえば、ヨーロッパでは千年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の機械文明の進展のため、フォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく、現実のいたるところに往古の痕跡が残っている」そうなのです。
柳田は、日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということを発見し、民間伝承の歴史研究上の有効性を認めたことで、柳田民俗学は形成されていったということのようです。
次に、日本の民俗学の発展に大きく貢献した「遠野物語」について調べてみました。
実は、遠野物語の中で座敷わらしがどのように紹介(17話と18話)されているのかを記したかったのですが、どう要約しても柳田氏の著作権を侵害(まだ氏の死後50年たっていない)しそうなので、ウィキペディアを参考にして遠野物語を紹介するに止めます。
遠野物語は、岩手県遠野町(現、遠野市)出身の佐々木喜善によって語られた地元の民話を、柳田が編纂して1912年に発表した説話集で、柳田民俗学の出発点と言われています。「遠野物語」は本編が119話、続いて発表された「遠野物語拾遺」には299話が収録されています。
私も昨夏遠野に行ってきましたが、あの小さな町にこれだけの数の説話が伝わっていたなんで今更ながらびっくりです。なるほど柳田が語っていたように「日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌がある」のですね。
TVで放映されていた「鹿男 あおによし」のイントロで、「むかし倭と呼ばれたこの地には八百万の神々が住んでいた…」と語られているのも納得です。
遠野物語には、天狗、河童、座敷童子などの妖怪をはじめ、山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらに祀られる神様そして行事など登場人物(?)は多岐に渡ります。
民間伝承に焦点を当て、奇を衒ったような改変をせず、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることは、遠野物語編纂後100年近く経った今でも高く評されています。
2008年03月17日
柳田國男と遠野物語@
座敷わらしを語る上で、説話集「遠野物語(こちら
にあります)」とその著者柳田國男を避けて通ることはできないでしょう。
前にも記したとおり、座敷わらしの伝承は日本各地に伝えられています。その中でも「座敷わらし=東北地方」のイメージが強いのは、赤子を間引かなければならないような飢饉が相次ぎ、座敷わらしの伝承が各地に伝えられていることに加えて、遠野物語による紹介が影響を与えていると思います。
そう考えてウィキペディアで調べてみました。
柳田國男氏(1875年〜1962年)は、歴史学の一分野だった庶民の歴史を民俗学に引き上げた日本民俗学の泰斗と賞されています。
柳田民俗学は、文献中心主義を批判することでスタートしました。
柳田は著書『郷土生活の研究法』(1935年)で、文献史学においては、
根拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないと述べています。たとえば、公文書などに記されている民衆からは、一揆や災害とかかわる姿は確認できたとしても、彼らの生活文化総体までは見えてはきません。
「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては、文献資料にのみ依拠することには限界と危険がともなうのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じているのです。
前にも記したとおり、座敷わらしの伝承は日本各地に伝えられています。その中でも「座敷わらし=東北地方」のイメージが強いのは、赤子を間引かなければならないような飢饉が相次ぎ、座敷わらしの伝承が各地に伝えられていることに加えて、遠野物語による紹介が影響を与えていると思います。
そう考えてウィキペディアで調べてみました。
柳田國男氏(1875年〜1962年)は、歴史学の一分野だった庶民の歴史を民俗学に引き上げた日本民俗学の泰斗と賞されています。
柳田民俗学は、文献中心主義を批判することでスタートしました。
柳田は著書『郷土生活の研究法』(1935年)で、文献史学においては、
根拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないと述べています。たとえば、公文書などに記されている民衆からは、一揆や災害とかかわる姿は確認できたとしても、彼らの生活文化総体までは見えてはきません。
「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては、文献資料にのみ依拠することには限界と危険がともなうのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じているのです。
2008年03月04日
座敷わらしに会えるのか(?)
座敷わらしのことをいろいろと調べていて、座敷わらしの伝承には
@間引きされて神様のところに戻った赤子が、また神様からこの世に送り出されて棲みついたという、その地域の悲しい鎮魂物語である座敷わらし
A人間に対していたずらをしながらも、福の神として大切にされてきたファンタスティックな物語である座敷わらし
の2つの側面があることが分かりました。
このことからも座敷わらしが、その地域の文化として現代にまで根付いていることを私たちに教えてくれています。
他に情報がないかとネットをあちこちと探していましたら、座敷わらしを観光の目的としている所がありました。その場所は岩手県の金田一温泉に400年の歴史を持っている「緑風荘」という温泉旅館です。(http://www3.ocn.ne.jp/~cluboh21/zashiki.htm)
詳しい内容はHPをご参照いただくとして、この旅館には座敷わらしが棲みついていて、運がよければ座敷わらしに出会うことができるそうなのです。びっくりですね。
実際に緑風荘で座敷わらしに会ったことがある人の話によると、その座敷わらしは白絹の着物を着て「我は〇〇麻呂なり」と涼やかな声でしゃべったという高貴な雰囲気であったそうで、遠野地方の座敷わらしと違って本物の家の守り神という感じです。
また緑風荘の座敷わらしは、家の福の神に加えて危険から身を守ってくれる福の神として、戦時中奥座敷は座敷わらしのご利益を願う人が次々と来て泊まっていたそうです。
この旅館の座敷わらしも、世の中の精霊の常として会おうと思って見張っていても出てはくれず、名にも知らずに泊まった人の枕元に現れるそうです。
私の調べた範囲では、最新の目撃情報(こちら
も参考に)はここの座敷わらしのようですので、私も折があれば泊まってせめて雰囲気だけでも味わいたいものです。
万が一座敷わらしに出会えたら、「この世は楽しいかい?」と聞いてみたいと思っています。昔あれだけいた座敷わらしが近年見かけられなくなってきたのは、“間引く”という悲劇が無くなったことと、神様から戻された座敷わらしたちの多くがこの世の生活を楽しんで、神様の元へと帰っていったためではないかと思っているものですから。
座敷わらしの絵が紹介されていないかネットをあちこちと探してみましたら、座敷わらしの雰囲気が出ていそうな(と言っても私は座敷わらしと遭ったわけではありませんのであてにはなりません)画像がありましたので紹介します。
漫画家のつのだじろうさんが描かれたそうです。
(http://homepage2.nifty.com/tabibito/zasikiwarasi.htm)
@間引きされて神様のところに戻った赤子が、また神様からこの世に送り出されて棲みついたという、その地域の悲しい鎮魂物語である座敷わらし
A人間に対していたずらをしながらも、福の神として大切にされてきたファンタスティックな物語である座敷わらし
の2つの側面があることが分かりました。
このことからも座敷わらしが、その地域の文化として現代にまで根付いていることを私たちに教えてくれています。
他に情報がないかとネットをあちこちと探していましたら、座敷わらしを観光の目的としている所がありました。その場所は岩手県の金田一温泉に400年の歴史を持っている「緑風荘」という温泉旅館です。(http://www3.ocn.ne.jp/~cluboh21/zashiki.htm)
詳しい内容はHPをご参照いただくとして、この旅館には座敷わらしが棲みついていて、運がよければ座敷わらしに出会うことができるそうなのです。びっくりですね。
実際に緑風荘で座敷わらしに会ったことがある人の話によると、その座敷わらしは白絹の着物を着て「我は〇〇麻呂なり」と涼やかな声でしゃべったという高貴な雰囲気であったそうで、遠野地方の座敷わらしと違って本物の家の守り神という感じです。
また緑風荘の座敷わらしは、家の福の神に加えて危険から身を守ってくれる福の神として、戦時中奥座敷は座敷わらしのご利益を願う人が次々と来て泊まっていたそうです。
この旅館の座敷わらしも、世の中の精霊の常として会おうと思って見張っていても出てはくれず、名にも知らずに泊まった人の枕元に現れるそうです。
私の調べた範囲では、最新の目撃情報(こちら
万が一座敷わらしに出会えたら、「この世は楽しいかい?」と聞いてみたいと思っています。昔あれだけいた座敷わらしが近年見かけられなくなってきたのは、“間引く”という悲劇が無くなったことと、神様から戻された座敷わらしたちの多くがこの世の生活を楽しんで、神様の元へと帰っていったためではないかと思っているものですから。
座敷わらしの絵が紹介されていないかネットをあちこちと探してみましたら、座敷わらしの雰囲気が出ていそうな(と言っても私は座敷わらしと遭ったわけではありませんのであてにはなりません)画像がありましたので紹介します。
漫画家のつのだじろうさんが描かれたそうです。
(http://homepage2.nifty.com/tabibito/zasikiwarasi.htm)
2008年03月03日
実在した(?)座敷わらし
座敷わらしについて、これまで私が調べた内容をまとめますと、「座敷わらしとは、口減らしのために間引きされた赤子が、神様から戻されて子供の姿となって家に棲みついた精霊をいう」でした。
ところが生身の子供が座敷わらしとして実在(?)していた、という記事がHPに掲載されていました。
岩手郡西根町の神社の別当職の家に生まれた筆者の曾祖母の話で、私が興味深く思った記事でしたので紹介します。
曾祖母が祖母を出産するために実家に帰っていた時の話。
広い座敷に赤ん坊を寝かせていたが、その場を一寸離れて戻ってくると、白い得体の知れぬ者が、赤ん坊に覆い被さっていた。曾祖母が驚いて大声をあげると、その者はスタスタと奥の方に逃げて行ったということだが、それは(生身の)座敷わらしではなかったか。
当時村は貧しく、一家で育てる子供の数が定められていて、それを破る家は別当職といえども村八分にあったという。現在のように産児制限などという言葉もなかった時代、必要以上に生まれてしまった時は“間引き”はよく行われていただろう。しかしそれが不憫で、人目を避けてこっそり育てようとすれば、座敷わらしにするより他は無かったのではないか。
比較的大きな旧家に座敷わらしが棲みつくと言われているのは、そこに子供を隠しておける広い空間があったからではないだろうか。
座敷わらしが大きくなるにつれて、奥のほうでコトリと音がしたり座敷を掃く音が聞こえてくるのも無理からぬこと。日中屋外に出る事が無かったから、座敷わらしは総じて色白で、栄養が悪かったのでブヨブヨしていたといわれる。
遠野物語に出てくるオクナイ様が、家人が寝静まった夜中にせっせと野良稼ぎをして一家を助けたという話も、座敷わらしの仕業だったのではないだろうか。
という内容の記事です。
読んでみてナルホド感がありました。
せっかく生まれてきた赤子を手にかけるに忍びず、座敷わらしの言い伝えに紛らせてひっそりと育てる。また自分たちも座敷わらしの話を広める。そして赤子が成長したら、他の土地に逃がしてそこで生活させる。
筆者が慶応生まれの曾祖母から聞いた話ということですから、近年までこのような話は日本にあったわけで、生まれてきた子供の命を必死に守ろうとした当時の人々の様子がうかがえる記事ではないでしょうか。
ところが生身の子供が座敷わらしとして実在(?)していた、という記事がHPに掲載されていました。
岩手郡西根町の神社の別当職の家に生まれた筆者の曾祖母の話で、私が興味深く思った記事でしたので紹介します。
曾祖母が祖母を出産するために実家に帰っていた時の話。
広い座敷に赤ん坊を寝かせていたが、その場を一寸離れて戻ってくると、白い得体の知れぬ者が、赤ん坊に覆い被さっていた。曾祖母が驚いて大声をあげると、その者はスタスタと奥の方に逃げて行ったということだが、それは(生身の)座敷わらしではなかったか。
当時村は貧しく、一家で育てる子供の数が定められていて、それを破る家は別当職といえども村八分にあったという。現在のように産児制限などという言葉もなかった時代、必要以上に生まれてしまった時は“間引き”はよく行われていただろう。しかしそれが不憫で、人目を避けてこっそり育てようとすれば、座敷わらしにするより他は無かったのではないか。
比較的大きな旧家に座敷わらしが棲みつくと言われているのは、そこに子供を隠しておける広い空間があったからではないだろうか。
座敷わらしが大きくなるにつれて、奥のほうでコトリと音がしたり座敷を掃く音が聞こえてくるのも無理からぬこと。日中屋外に出る事が無かったから、座敷わらしは総じて色白で、栄養が悪かったのでブヨブヨしていたといわれる。
遠野物語に出てくるオクナイ様が、家人が寝静まった夜中にせっせと野良稼ぎをして一家を助けたという話も、座敷わらしの仕業だったのではないだろうか。
という内容の記事です。
読んでみてナルホド感がありました。
せっかく生まれてきた赤子を手にかけるに忍びず、座敷わらしの言い伝えに紛らせてひっそりと育てる。また自分たちも座敷わらしの話を広める。そして赤子が成長したら、他の土地に逃がしてそこで生活させる。
筆者が慶応生まれの曾祖母から聞いた話ということですから、近年までこのような話は日本にあったわけで、生まれてきた子供の命を必死に守ろうとした当時の人々の様子がうかがえる記事ではないでしょうか。
2008年02月29日
小説「愛しの座敷わらし」A
しばしば小説やドラマの題材になる座敷わらしは、次のように描かれるパターンが多いようです。
子供たちと座敷わらしが遊んでいる。座敷わらしの姿は大人には見えない。子供たちが集まっている。数を数えると1人多いのだが、誰が多いのか分からない。しばらくしてもう一度数を数えると、今度はちゃんと合っている。さっき多かった1人は座敷わらしだったのだろうと皆で話し合った。
この「愛しの座敷わらし」の小説の中に、印象に残った一文があります。
「座敷わらしは福の神」と言われて大切にされてきたことは様々な資料に出ていますが、「座敷わらし=福の神」となった理由が私にはいまいちよく分かりませんでした。それを著者・荻原浩氏はこの「愛しの座敷わらし」の中で、分かりやすくお婆さんに語らせていましたので印象に残ったわけです。
それは、「座敷わらしは潰された子供…、潰すというのは、つまり…間引きのことだす。座敷わらしは間引かれた子供の化身。この辺りではそう言われてるす。」
「きれいな言葉で言えば、神にお返しする、だぺ。神様にお返しした子供が、お乳とおんぶのいらない年になってからこの世にもどされる。こんどは悲しい思いをしなくてもいいように、棲みつく家を裕福にする力を備えて…。」
このような座敷わらしの言い伝えが事実であるのか、また本当に座敷わらしが存在するのかどうかということではなく、このような話が地域の人々の心に根付いていることが、その地域の歴史の重さというものを私たちに伝えてくれています。
別のHPより、地域の人の言葉。
「座敷わらしって、この土地では、雪の下の福寿草のようなもので、目に見えなくとも、ああ、このどこかに居るんだなって、普通に思える存在なんです。」
子供たちと座敷わらしが遊んでいる。座敷わらしの姿は大人には見えない。子供たちが集まっている。数を数えると1人多いのだが、誰が多いのか分からない。しばらくしてもう一度数を数えると、今度はちゃんと合っている。さっき多かった1人は座敷わらしだったのだろうと皆で話し合った。
この「愛しの座敷わらし」の小説の中に、印象に残った一文があります。
「座敷わらしは福の神」と言われて大切にされてきたことは様々な資料に出ていますが、「座敷わらし=福の神」となった理由が私にはいまいちよく分かりませんでした。それを著者・荻原浩氏はこの「愛しの座敷わらし」の中で、分かりやすくお婆さんに語らせていましたので印象に残ったわけです。
それは、「座敷わらしは潰された子供…、潰すというのは、つまり…間引きのことだす。座敷わらしは間引かれた子供の化身。この辺りではそう言われてるす。」
「きれいな言葉で言えば、神にお返しする、だぺ。神様にお返しした子供が、お乳とおんぶのいらない年になってからこの世にもどされる。こんどは悲しい思いをしなくてもいいように、棲みつく家を裕福にする力を備えて…。」
このような座敷わらしの言い伝えが事実であるのか、また本当に座敷わらしが存在するのかどうかということではなく、このような話が地域の人々の心に根付いていることが、その地域の歴史の重さというものを私たちに伝えてくれています。
別のHPより、地域の人の言葉。
「座敷わらしって、この土地では、雪の下の福寿草のようなもので、目に見えなくとも、ああ、このどこかに居るんだなって、普通に思える存在なんです。」
2008年02月28日
小説「愛しの座敷わらし」@
前に記した「座敷わらしに対する私のイメージを変えた昨年の出来事」が、実はもう一つあります。それは昨年11月まで朝日新聞夕刊の連載小説「愛しの座敷わらし(荻原浩氏著)」です。
私は新聞の連載小説はほとんど読みません(テレビの連続ドラマも同じですが)。私は気が弱いものですから、1回でも見落としてしまうと「うわー、失敗した!ど〜しよう」とけっこう落ち込んでしまうんですね。
新聞は翌日読むことができますからまだ心の被害は少なくて済みますが、日々受けているプレッシャーに「連載小説を毎日読まなくてはならぬ」というプレッシャーが加わると、もっと疲れてしまうものですから。
そんな理由で新聞の連載小説も今まで無視していました。ところがこの「愛しの座敷わらし」は、最初に「座敷わらし」という妖怪(と思っていました)のタイトルで目が引っ掛かってしまい、第1回目から読み始めてしまいました。
座敷わらしのつらく悲しい生い立ちを上品に包んだファンタジー溢れる読みやすい文章と、挿絵に描かれた座敷わらしのかわいらしさにどんどん引き込まれていったのです。
この小説「愛しの座敷わらし」と遠野への旅行が、「座敷わらしのことをもっと知りたい」と思うきっかけになりましたね。
ここで参考までに、「愛しの座敷わらし」のストーリーを簡潔に紹介します。
タイトルから受けるイメージとは多少違って、座敷わらしではなく主人公一家の絆が小説の主題なのですが…。
父親が仕事一辺倒で家庭を顧みないことから、なんとなく家族関係がギスギスしていた東京暮しのサラリーマン一家が、父親の転勤で田舎の古い家に引っ越してくる。家族は主人公である小学4年のボクとパパとママ、中学1年のオネエチャン、そしてバアバの5人家族である。
最初は皆、大きいだけで不便で古ぼけた家に文句を言っていたが、近所や学校で知り合いや友人ができてきて、次第に田舎の暮しが好きになっていった。そんな時、ボクは広い庭の隅に建っている祠の前で小さな子供に出会い、そこから座敷わらしとボク一家の物語が始まる。
最初は皆座敷わらしの存在を疑い怖がっていたが、「座敷わらしは福の神」と近所のおばあさんから聞かされて次第に親しみを感じるようになり、家族の一員のようになっていく。そんな中、会社人間だったパパも次第に家族思いになり平和な生活が築かれていくが、3ヵ月後、再び転勤する事になってしまう。
あれだけ不便で古ぼけた家に住むことをいやがっていた一家は、いつしか東京に帰ることを嫌がるようになっていた。
座敷わらしと別れることを寂しく思いながら、とうとう一家は東京へ戻っていくが…。
この「愛しの座敷わらし」は、今年朝日新聞社から発刊(こちら
にあります)だそうです。
私は新聞の連載小説はほとんど読みません(テレビの連続ドラマも同じですが)。私は気が弱いものですから、1回でも見落としてしまうと「うわー、失敗した!ど〜しよう」とけっこう落ち込んでしまうんですね。
新聞は翌日読むことができますからまだ心の被害は少なくて済みますが、日々受けているプレッシャーに「連載小説を毎日読まなくてはならぬ」というプレッシャーが加わると、もっと疲れてしまうものですから。
そんな理由で新聞の連載小説も今まで無視していました。ところがこの「愛しの座敷わらし」は、最初に「座敷わらし」という妖怪(と思っていました)のタイトルで目が引っ掛かってしまい、第1回目から読み始めてしまいました。
座敷わらしのつらく悲しい生い立ちを上品に包んだファンタジー溢れる読みやすい文章と、挿絵に描かれた座敷わらしのかわいらしさにどんどん引き込まれていったのです。
この小説「愛しの座敷わらし」と遠野への旅行が、「座敷わらしのことをもっと知りたい」と思うきっかけになりましたね。
ここで参考までに、「愛しの座敷わらし」のストーリーを簡潔に紹介します。
タイトルから受けるイメージとは多少違って、座敷わらしではなく主人公一家の絆が小説の主題なのですが…。
父親が仕事一辺倒で家庭を顧みないことから、なんとなく家族関係がギスギスしていた東京暮しのサラリーマン一家が、父親の転勤で田舎の古い家に引っ越してくる。家族は主人公である小学4年のボクとパパとママ、中学1年のオネエチャン、そしてバアバの5人家族である。
最初は皆、大きいだけで不便で古ぼけた家に文句を言っていたが、近所や学校で知り合いや友人ができてきて、次第に田舎の暮しが好きになっていった。そんな時、ボクは広い庭の隅に建っている祠の前で小さな子供に出会い、そこから座敷わらしとボク一家の物語が始まる。
最初は皆座敷わらしの存在を疑い怖がっていたが、「座敷わらしは福の神」と近所のおばあさんから聞かされて次第に親しみを感じるようになり、家族の一員のようになっていく。そんな中、会社人間だったパパも次第に家族思いになり平和な生活が築かれていくが、3ヵ月後、再び転勤する事になってしまう。
あれだけ不便で古ぼけた家に住むことをいやがっていた一家は、いつしか東京に帰ることを嫌がるようになっていた。
座敷わらしと別れることを寂しく思いながら、とうとう一家は東京へ戻っていくが…。
この「愛しの座敷わらし」は、今年朝日新聞社から発刊(こちら


